演奏するあなたの「存在価値」は揺らがない
「こんなひどい演奏をして…。私など生きている価値がない。」
決して冗談でなく、かつて私はよくこんな風に考えていました。
自分に厳しく、という意味もあり、またある種の自嘲の意味もあり…..。
またそんな風に自分を評価することで、深層心理では逆に「救われる」「許される」そんな気がしていたことも事実です。
自分への脅迫。
一体いつからそんなことを考えるようになったのか。
細かいことは思い出せませんが、恐らく音大受験〜音大時代に遡ると思います。…いや、もっと前かもしれません。
「こんなことでは(この世界で)生き残れない」
このようにはっきり言語化して意識していた訳ではありませんが、自分をこんな風に常に追い詰めながら生きることがいつしか習慣になっていったように思います。
そうしていないとダメになるような気さえしていました。
自分の「存在価値」への無意識な否定。
そして自分を否定しながら続ける、芸術という自由な表現への終わりなき探求。
生きることの美しさや尊さ、素晴らしさを伝える音楽家でありながら、私は自分に対して逆説的にそんなことをし続けていたのでした。
自由な探求のための明確な土台。
このような大きな拮抗がいつまでも続くわけがなく、やがて私は行き詰まっていきました。
芸術の世界は、確かに厳しい世界かもしれません。
クライアントに気に入られなければ、二度と仕事が来ないことも事実です。
何かを生み出すためには、もちろん葛藤の時間も必要でしょう。
…でも、これは何かが根本的に違う。
当たり前ですが、
人間としての「存在価値」と演奏者としての「技術」「資質」は全く完全に別のものです。
そんなことは自明の理なのですが、案外そこをしっかりと分けることなく無意識的に考えてしまっていることも多いのではないでしょうか。
どんなことがあっても、自分という人間の「存在」は完璧である。
その明確な土台があってこそ、真に自由な表現、芸術の真髄を追求していけるのだと思います。
自分の声を聞く、自分の「身体」。
身体は自分の声をいつもよく聞いています。
「指を動かそう」と思った習慣に指が動いてくれるように、思ったとおり動こうとするものです。
「生きている価値がない」…たとえ本心でなくても、そんな自分の声を聞いて、身体はどう答えてくれるというのでしょうか。
自分の演奏を評価する上で、どんなに厳しく批判的な目と耳を持って臨む必要があるとしても、この「人間としての存在価値」とは別のものであることを、いつもクリアに意識的に理解していなくてはならないと思います。
教える上でも、そこをしっかりと伝えていきたいものです。
どんなに音を間違えたとしても、外したとしても、音程が合わなかったとしても、タテがズレたとしても、不甲斐ない演奏だったとしても。
あなたという人間の「存在価値」とは全く関係がありません。
当然のようですが、ここが曖昧だと本当の意味での”自由な表現”
が妨げられます。— 渡邊愛子 (@aikohime3) 2018年11月7日
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